Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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永澤:でもそれは国語、日本語っていう意味の国語じゃなくて、ロゴスですよね。
永澤:でも、三入さんの主張はそうじゃなくて、それ以前の、それ以前のっていう意味での、より根源的な意味での情緒ですよね。だから数学も国語の一種だって言ってるのは、ロゴスっていう意味ではもちろんそれは、そうなんですよ。だけど、三入さんがさっきおっしゃったのはそうじゃなくて、それもいいけど、ロゴスもいいけど、もっとロゴスの出発点で、公理の選択にしても、情緒によるんだから、情緒を重用視しなさいっていう部分に、共感を持たれたんですよね。さっきの主張と、今の主張とどう整合させるんですか。整合しないのを、彼も体現してるんですよ。
永澤:つまりね、パトリオティズムを採るかナショナリズムを採るかの、どちらかの二者択一なんてできる訳無いんですよ。どっちとも、もう分けられないし、どっちとも揺れ動いちゃう。ロゴスか、直観。で、まさに、宮永先生もおっしゃったように、本当に今の最先端っていうのは、つまり直観、情緒のレベルだけとか、事実そのものってところまで行ってるのが本当に理解されてるかっていうと、そこまで理解されていないっていうのが事実ですよね。っていうのがあって、それはまた私が、哲学の分野から言えば、ロゴスの限界を突き詰めるっていうところまではもうみんな分かっていて、でもそれ以前に、語ることができないものがあるのも分かっている。だけどそれは示せるじゃないか、まさにウィトゲンシュタインはそれを言っていたんだっていうのは、かなり素朴なレベルで、今までの常識で、ほとんどのウィトゲンシュタイン研究者も、そこのレベルで止まっている訳ですよ。だから、こういう情緒のレベルにもまだ整合するレベルなんですよ。でも今は、そうじゃなくて、語ることも示すこともできないっていうのが、まさに事実性のレベルであると。
永澤:つまり、この、今私の言っているこの言語ゲームの偶発性っていうのは、語ることも示すこともできない。で、それこそ、あのウィトゲンシュタインの関心を究極的に突き詰めるとそうなるんじゃないかって言う人もわずかに、一人か二人だけ初めて言い始めたんですよ。まあ永井均とか、ああいう人はもう前から言ってますよ。で、そういう本を出して、ブログとかで私も書いてますけど、まだそこまでしか行ってないんですよ、実は。今までは単に、語り得ないものについて、注目しなければならない、だけど、でも情緒があるじゃないか、みたいなものだったんですけど。だけど、それはウィトゲンシュタインも示せると言ってるじゃないか、規則自体は前提できないけど、でも規則に従ったことも現にやってることで示せるじゃないか。でもそれすらも、この各自の言語ゲームの事実そのものは、示すことすら本来できないものなんだとしかならないんじゃないですか。っていうのは、今ようやく到達したところだから、まだ分かってないんですよ。その、事実っていうレベルでは。で、あと一方で、でもそれについて、既に我々は議論してるんじゃないかって言うのが、今の世界ですよね。私の言葉でいえば超越論的なレベルなんですけど、その本当に語ることも示すこともできないことについて、私も今しゃべってるし、語ってる訳ですよ、既に。だから学問のパラダイムは止まらないし、進んでいく訳ですよね。事実っていうものをテーマ化することで。だから、そこでロゴスを言うならいいですけれど、それ以前の、語ることはできなくても示せるんじゃないかのレベルで、情緒とか言ってもらっちゃ全然困るし、今の世界のレベルから見れば全然問題外ですよ。
永澤:で、それは、残念ながら多分今後、何十年か分かりませんけど、100年程度は、多分、こんな感じで進んでいくんじゃないんですか、日本は。
永澤:今、数学教育は危機にありますからね。
永澤:三角関数とか、もう学ばなくていいみたいですからね。
永澤:まあ、それは別にいいと思うんですよ。確かに、右脳と左脳とインターフェースさせないと、直感っていうものが、新しい発見が生まれないっていうのはそうだと思うんですよ。そのベースとして、いろんなそれぞれの方法で音楽とか、そういうものをやる。それについては私は別に批判しない。それはその通りだと思うし。たとえばニュートンとかはどうなんでしょうねえ。ニュートン。ニュートンにとってのベースになるようなものって、やっぱり伝統的な受け継がれたものっていうのは一体何なのかっていうことを証明して頂ければ誰か、教えて欲しいですけど。
永澤:だから、ニュートンについてもいっぱいあると思うんですよ。それこそキリスト教的なものとか、もっとアルケミーの様なものとかそういう、いっぱいあると思うんですよね。
永澤:あの、三入さんが言ったように歴史上にすごい飛び抜けた人達、ニュートンですとかね、アインシュタインとか。で、そういう人達がとりわけ、学校教育じゃない場でいた人な訳ですよね。
永澤:ニュートンだってみんな、家庭教師じゃないですか。
永澤:公立ですか、私立ですか。
永澤:今の話ですか。
永澤:アブダクションって最初に明確に定義したのは、チャールズ・サンダース・パースっていうアメリカ人ですよ。
永澤:ええと、ものすごく不遇な人で、一生非常勤的な立場で。
永澤:いつ言ったかっていうと、おそらく19世紀の後半のいつか。非常に、結構、昔の人ですよ。誰からも理解されずに死んじゃったっていう。
永澤:ああ、そうですか。
永澤:パースは、あまりにも天才的だったが故に、理解されなかったですね。
永澤:ちょうどあの、エドガー・アラン・ポーのように。だけど今、復活してる訳ですよね。
永澤:それがまさに今、科学の話だと多分、演繹でも帰納でもない方法が今模索されているっていうところで、そこでパースのアブダクションっていうのが脚光を浴びている段階だと思うんですけど。
永澤:おそらく、それを非常に素朴に使っちゃってる様な人もいるような気がして。結局さっきの、論理以前の情緒を前提しちゃって、それを直観する、みたいな。またそういうような感じになってる。実は今ちょっと査読論文を頼まれていて、ここにあるんですけれども(笑い)、徹底的にそれを批判してるんですよ、私は。というのは結局、昔批判され尽くした直観、ロゴス以前の直観っていうのを認めちゃってるような感じになっちゃってて、要するに逆行してるんですね。でも言葉の上ではアブダクションっていうタームを使っていたりするんですよ。本当にそのアブダクションっていう言葉も、そんなことに使われるんじゃあな、っていう。
永澤:それはパースの独創じゃないですか、アブダクションっていう言葉の定式化に関しては。仮説演繹法って訳されてるんですよ。だけどそれも訳が分からないですね、訳語だけでは。
永澤:もう一回使ってる人達はですね、日本人研究者の場合は、孫引きでしょうね。英語の文献とかを使ってる人達は、比較的最近アブダクションがリバイバルされて出てきたのでそれを使ってるっていう様な話だと思うんですよ。
永澤:もともとの使ってる人が誰かっていうのは、例えば先の査読論文の対象論文の著者の臨床心理学者が引用しているのは、ハンソンという結構メジャーな科学哲学者の『科学的発見のパターン』という本で、村上陽一郎さんが翻訳しています。出たのは1958年とかなり昔です。
永澤:でも演繹でも帰納でも行けそうなんだから、第3のものを、それが今おそらく。
永澤:宮永先生が主張なさっていることを、こういう場で広めるというか。公教育は一切動かせないから。
永澤:私もその主張に賛成ですよ。やりたい人がやればいい。こういう考えに基づいて何かできるかどうかは、やってみなくちゃ分からないですよ。少なくとも、インタラクションで教えたい。まあ、でも相手の知識レベルに合わせなくちゃいけないっていうのはあるんですけれどね。
永澤:日本語が特別、論理的だとか論理に向いていないとかっていう言説自体がイデオロギーのレトリックに過ぎない訳で、まさに国語っていうものと同じレベルで。要するに、まあそれが何を狙ってるかは分かりませんけど、だから、日本人は英語が話せないとかそういう話にもつながったりもする訳ですよ。で、英語が、例えばインド・ヨーロッパ語族から来てて、近代ヨーロッパ語とかも含めて、日本語がそれらに比べて、とりわけ論理に向いていないとか、非論理的であるなんてことは、絶対無いと思うんですよね、私は。全くそんなことは言えないと思うんですよ。
永澤:そうです。日本語自体は別に。
永澤:哲学に向いてると思いますよ。質が高いかどうかは実際に使ってる人達の質が高ければ、別に日本語だろうがアラビア語だろうが何だろうが、関係ないと思いますよ。
永澤:少なくとも私が言ってるのは、日本語はとりわけ哲学とか科学とかそういったロジカルなものに、向いていないとかいうことは無いっていうことなんですよ。
永澤:そうですね。本当に私が言いたいのは、何が英語とかと日本語と違うかっていうと、まさに歴史の問題で、Be動詞ならBe動詞自体の、メタレベルでの考察、つまり、自分が、普通のほとんどの人が無意識に使っているのが、当たり前の言語の使用の姿なんですけど、それをとんでもないことに、自分の使っている言語自体のロジックを、対象化して思考した人が、どういう偶然か分からないんだけれど、あのインド・ヨーロッパ語族の人達が、インド圏でも、とりわけギリシャですよね。アリストテレスみたいな人間が出たっていうことですよ。そこが、他の文化圏、日本語圏とかいう言語圏では、出なかったんですよ。その伝統があるっていうことなんですよ。ロジカルであるかどうかっていう伝統が。で、日本は残念ながら、そういう人がいなかったんですよ。ところが、英語を今使ってる人達が圧倒的に有利なのは、そういう伝統を背負って、それを前提できるからで、英語を使っている人も、フランス語を使っている人もドイツ語やイタリア語を使っている人も、要するに今の近代、インド・ヨーロッパ語族の言語を使ってる人が圧倒的に有利なのは、そのアリストテレスみたいな、とんでもない偶然的に出た、ロジック自体を自らの言語で明示しちゃった人がいたからなんですよ。つまりそれを、遺産として、コーパスっていうか記録として、慣習的なデータとして、もう、道具みたいに、最初っから目の前に置ける環境にあった訳ですから、もう。少なくても紀元前300年頃のアリストテレスがそれぞれの知的環境において「再発見」されたとき以来。だから、語る理論にしても何にしても、自分たちが使ってる言語のロジック自体は完璧に言語化されてる訳で、それをもう今超えることはできませんし、記号論理学とかに移っても、ロジック自体のレベルから見ると、まさにアリストテレスの論理学を超えることができないんですよ。もう、やり尽くされてる訳です、既に。それはただ記号化したり、述語論理にしたりとか、そういったものにしただけで、普通の我々が使ってる、要するに主語とか述語とかそういったもののロジック自体は、我々の思考自体も全部もう、対象化されてるんです、既に。でもそういう人がいなかったから、我々は、自分が使ってる言語自体のロジックっていうものを意識する習慣が無いんですよ。ただ無自覚に使ってるだけで。だけどヨーロッパの、少なくとも知識人と言われるある一定レベル以上の人達は、もう常識なんですよ。そういう、アリストテレスならアリストテレスのロジックというものがあって、中世なら中世のロジックというものがあって、それを我々が引き継いで記号論理学とかやっているっていうのは。それはやっぱり、すごい圧倒的な差があるんですね。不利と言えば、不利です。だけど私がさっきから言ってるのは、日本語自体が、言語として見て、これだけ我々がロジックのことを考えられるってことで、たまたま徹底したメタレベルで考察した哲学者がいなかったということですね。アリストテレス以外ではやはりいろいろ言われてもデカルトなんかを思い浮かべますが。それこそが、まさに宮永先生がつねづね言っている、おそるべき「抽象」の力です。だから、科学にしても、サイエンスにしても、圧倒的にヨーロッパ系、アメリカも含めて、彼らがトップを走り続けている、ということになってしまっているんですよ。実際には。だから今英語が、世界言語なんですよ。
永澤:まあ、健康に気を付けて、長生きすることなんじゃないですか、皆さん。でも、日本語でこうやってできているということで、未来はあるんじゃないですか、日本語に。日本語って翻訳能力はかなりあると思うんですよ。どうですか。

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